東京地方裁判所 昭和51年(ワ)6694号 判決 1977年10月13日
原告
小林美智子
ほか三名
被告
住友海上火災保険株式会社
主文
一 原告らの請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実
第一申立
(原告ら)
一 被告は、原告小林美智子、同小林良一、同小林秀子、同小林春子に対してそれぞれ金一五〇万円、原告小林初江に対して金四〇〇万円及びこれらに対する本訴状送達の翌日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は、被告の負担とする。
との判決並びに仮執行の宣言
(被告)
主文同旨の判決
第二主張
(原告ら)
「請求原因」
一 原告らの身分関係並びに事故の発生
原告小林美智子(以下美智子という)、同小林良一(以下良一という)、同小林秀子(以下秀子という)、同小林春子(以下春子という)は、いずれも後記小林治の未成年の子であり、原告小林初江(以下初江という)は、右小林治の妻にして右原告四名の親権者母である。
訴外小林治は、昭和四九年八月五日午後四時一〇分頃、茨城県北相馬郡藤代町大字岡九八九番地先道路上において他人と立ち話中、訴外蓮見貞子の運転する普通乗用車(茨五五り二一二七、以下「被告車」という)に激突されて右側頭部陥没骨折の傷害を蒙り、同日午後五時一〇分頃、我孫子市湖北台―四―六―一所在の我孫子中央病院において死亡した。
右事故は藤代町方向から進行して来て事故現場に差しかかつた訴外蓮見が、立ち話中の訴外小林治を認め、停車するためブレーキを踏もうとして誤つてアクセルを踏んだ結果生じたもので、ひとえに訴外蓮見の過失にもとづくものである。
二 損害
訴外小林治は、死亡時満三九歳の健康な男子で、農業を営むかたわら、松戸市所在の足立造園こと足立健之助方で植木職として勤務していて、農業によつて年間六〇万円、植木職として一ケ月一〇万円(年間一二〇万円)の収入を得ていた。
そうすると訴外小林治は向後二八年間右二つの業務に就労可能で、その間右金額の収入を得られると見込まれるので生活費に年収の五〇%を要するとしてもこの間年額九〇万円の利益があることになる。そこでホフマン方式によつて中間利息を控除してこれを現価に引直すと一、五四九万八、〇〇〇円となる。
前記身分関係に照らし、訴外小林治の死亡により原告初江は三分の一、その余の原告らは各六分の一の割合で法定相続分に従い相続した。
よつて原告らの各損害は次のとおりとなる。
(一) 原告初江 九一六万六、〇〇〇円
内訳
(イ) 逸失利益 五一六万六、〇〇〇円
前記のとおり、亡小林治の逸失利益の三分の一の相続分
(ロ) 慰藉料 四〇〇万円
亡小林治は一家の支柱で、原告初江の夫であつたのであり、同人の死亡による慰藉料としては右金額を相当とする。
(二) その余の原告ら各三五八万三、〇〇〇円
(イ) 逸失利益 各二五八万三、〇〇〇円
亡小林治の逸失利益の六分の一の相続分
(ロ) 慰藉料 各一〇〇万円
原告らは幼くしてその父を喪つたのであり、その精神的苦痛は甚大で、慰藉料としては右額をもつて相当とする。
(三) 損害の墳補
原告らは訴外蓮見から右損害の填補として三〇〇万円の支払を受けたが、その余の部分については同訴外人に資力がないため支払を受けられないでいる。
右支払を受けた分については相続分に応じて各原告の損害に充当したので、現在訴外蓮見に対して原告初江において八一六万六、〇〇〇円、その余の原告らにおいて各三〇八万三、〇〇〇円の損害賠償請求権を有している。
三 保険契約の存在
前記被告車について訴外小林治と被告会社との間にいわゆる自賠責保険契約が締結されていた。なお右車両の所有名義人は死亡した小林治自身であり、自賠責保険も小林治によつて附されていたものである。
四 被告会社の保険金支払義務
昭和四九年八月当時施行されていた自動車損害賠償保障法施行令によれば、死亡時に給付される保険金額は一、〇〇〇万円であつた。そこで原告らは、昭和四九年一〇月頃に被告会社に対して自賠責保険契約に基き損害賠償の被害者請求をしたところ、被告会社は被告車の所有各義が亡小林治になつていたこと等を理由としてその支払を拒否した。
しかしながら亡小林治はかつて被告車の所有者であつたが、かねて付合いのあつた訴外蓮見にこれを譲渡し、本件事故時まで長期間にわたつて同訴外人においてこれを使用していたものであり、よつてこの車両は既に小林治の手を離れて単に同人に名義が残存していたに過ぎないものである。
右のごとき状況であるから被告会社は原告らに対して保険金支払義務がある。
五 結論
以上の次第で被告会社は保険金額一〇〇〇万円の範囲内で原告らに生じた損害につき保険金を支払うべき義務がある。
よつて損害のうち原告初江は四〇〇万円、その余の原告らは各一五〇万円及びこれらに対する本訴状送達の翌日以降商事法定利率たる年六分の割合による遅延損害金の支払を求めるものである。
「被告の主張に対する反論、その他」
被告主張のうち、亡小林治と訴外蓮見との関係、本件事故に至る経過についてはこれを認める。しかし被告の主張とは異なり本件事故当時訴外蓮見が被告車の保有者であり亡小林治は自賠法三条にいう「他人」の地位にあつたので同法に基づき損害賠償請求権を有するものである。
この点の詳細な事実上、法律上の主張、並びに被告の抗弁に対する答弁は別紙「原告の主張」記載のとおりである。
(被告)
「請求原因に対する答弁」
請求原因一項中、小林治の死亡場所は不知、その余の身分関係、本件事故の発生、発生に至る経過等はすべて認める。
同二項は不知、同三項は認める、なお保険期間は昭和四八年八月二三日から同五〇年八月二三日までであつた。
同四項中原告らから自賠責保険金の請求があつたこと、当時の死亡の場合の保険金額が一、〇〇〇万円であつたことは認めるが、亡小林治が訴外蓮見に被告車を譲渡していたことは否認し、被告会社に保険金支払義務があることは争う。
同五項は争う。
「被告の主張」
本件事故当時の被告車の保有者は訴外小林治で、そして同訴外人と訴外蓮見とは愛人関係にあつたものである。本件事故は訴外小林治が訴外蓮見を同乗させて被告車を運転して事故現場付近に至り、被告車を停止させて車外で友人と立話中に、車内に残つた訴外蓮見が無免許にもかかわらず被告車にいたずらをしてこれを発進させて訴外小林治に衝突させたものである。
右事実からすると事故当時訴外蓮見は保有者たる地位にはなく、そして事故当時において訴外小林治が被告車の運行供用者であつて「他人」ではなかつたのであるから、同訴外人の遺族である原告らは自賠法三条の損害賠償請求権を有しない。
右の点の詳細な主張並びに原告らは訴外蓮見との間で和解契約を締結していて同訴外人に対して損害賠償請求権を現有しておらず、この点からも原告らの請求が失当である旨の抗弁は、別紙「被告の主張」記載のとおりである。
第三証拠関係〔略〕
理由
一 原告らの身分関係、本件事故によつて訴外小林治が死亡したこと、被告車につき原告ら主張の保険契約が附されていたことはいずれも当事者間に争いがない。
原告らは自賠法一六条にもとづきいわゆる被害者請求として保険会社たる被告に対して保険金額の限度で原告らの蒙つた損害の賠償を請求しているものであるところ、被告は、事故当時訴外蓮見は被告車の保有者たる地位にはなく、かえつて訴外小林治が被告車の運行供用者であつて自賠法の賠償責任は生じていないと主張する。
二 そこで本件事故発生時における訴外小林治の地位について検討するが、その前提として小林治と訴外蓮見との関係本件事故に至る経過についてみるに、成立につき争いのない甲第一号証、乙第四ないし第一五号証(本件事故の刑事記録)を総合すると、以下の事実が認められる。
(一) 亡小林治(事故当時三九歳)と訴外蓮見(同じく三四歳)は昭和四四年頃から愛人関係にあり、一時は小林治において訴外蓮見方に同居したこともあるが、子供のことなどを考え将来この関係を解消させるという予定のもとに事故直前の昭和四九年七月頃に別居し、そして小林治は自分の荷物を引上げていつたのであるが、その後も同人において時折蓮見方を訪れるという形で双方の関係は続いていた。
(二) 事故当日、訴外蓮見は昼頃から自宅で知り合いの斎藤八千代、木村匡男と酒を飲んでいたところ、そこへ小林治が尋ねて来た。同人はこの時はすぐに帰宅したが、午後二時過ぎに被告車を運転して再度尋ねて来た。そして四人で共に飲食するところとなつたが、午後三時半頃になるや小林治は被告車で外へ出ようと木村匡男を誘い、同人もこれに応じた。
(三) この頃までに訴外蓮見は清酒を一合位飲んで少し酩酊状態となつていた。同女は小林治が木村匡男を外出に誘つたのを聞き、小林治に自分と斎藤八千代も連れて行つてくれるように懇請し、小林治の「二人だけの話があるから来るな」との言にもかかわらず同人の運転する被告車に斎藤八千代と共に乗り込んだ。
同女がかかる挙に出たのは、小林治において同女方に出入していたことについて木村匡男に咎め立てをして双方の間に紛争が生じるのを恐れたためと思われる。なお同女と木村匡男は一〇年位前に結婚話もあつたが以来音信不通となつていたのに、四ケ月位前に偶然めぐり逢い、以来時たま行き来していた。
(四) こうして小林治は、訴外蓮見、木村匡男を乗せた被告車を運転して同日午後四時頃本件事故現場に至つたものである。
同所は一級河川小見川の右岸堤防上の、通称岡堰上の堤防と呼ばれる歩車道の区別のない幅員約三・二メートルの非舗装(土)の道路上である。同道路は小見川沿いに上流に向つてゆるく右に湾曲しているが、事故現場から上流へ約一キロ、下流へ約五〇〇メートル見通すことができ、また事故現場付近で、道路の小見川と反対側は幅員約五メートルの草叢の下り傾斜地となつており下に小見川と平行して用水堀が流れている。
(五) 小林治は、衝突地点から約一五〇メートル下流の吸水管が設置してある付近で被告車を停車させたうえ、そこに訴外蓮見と斎藤八千代を待たせて、木村匡男を誘つて徒歩で上流に向つたのであるが、この時被告車にエンジンキーを付けたままにしておいた。
そして被告車から約一五〇メートル上流の所で付近を歩いたり、道端に坐りこんだりしながら小林治は木村匡男に、訴外蓮見との関係を問い糺したり、また同女は自分と関係のある女性だから同女宅に出入りしないように命じたりしたのであるが、木村匡男は小林治の意向を了承し、特段の争いはなかつた。
(六) この間(二〇分位と思われる)訴外蓮見は両人の様子を気にして近くまで来たのであるが、両人から「二人だけの話だから来るんじやない」と言つて追い返えされて被告車の所まで戻つて来た。
ところで同女は自動車運転免許は有せず、これまで小林治から一、二度運転方法を教わつたり、昭和四七年一一月頃自動車教習所に数日通つたことはあるも、バツクの方法も知らない位の未熟な運転技術しか持つていなかつた。
しかるにこの時同女は、小林治らが自分のことを話しているようで気になることや、停車してから二〇分近くも待たされて待ちくたびれたこと、さらに酔で気が大きくなつていたことから、突然被告車を運転して小林治らの所まで行つてみようと決意するに至つた。
そして不安がる斎藤八千代を助手席に乗せて訴外蓮見は被告車を発進させたが、すぐアクセルを離したので、被告車は時速一〇キロ位の低速で進行し、そして同女は前方約七五メートルの地点で立話をしている小林治らを認めたのであるが、さらにそのまま進行を続けたが、この頃には同女としてはハンドルをとるのが精一杯の状態となつていた。さらに小林治らの手前約七・七メートルに接近した所で同女は急制動の措置をとつたのであるが、運転未熟のためブレーキと間違えてアクセルを踏んだため、被告車は加速して道路右端に居た小林治に衝突し、そのまま用水堀側の斜面に進入し、約一八メートル斜め前方に進行したうえ停止し、よつて本件事故に至つた。
(七) なお事故当時訴外蓮見は一四歳と六歳の子と同居しながら近くの姉の営む飲食店の手伝をして月約六万円位の収入を得ていた。
三 ところで、本件事故当時被告車の所有名義が死亡した小林治となつていたこと、同訴外人によつて被告車につき自賠責保険が附されていたことは原告らにおいて自認するところである。
これら事実に右認定のごとき亡小林治の被告車の使用状況、訴外蓮見においてほとんど車の運転ができなかつたのみならず、同女方にも車の運転ができる者は居らず、そして事故の少し前から同女と小林治は別居していたこと等を考え合わせると、亡小林治が日常被告車を自己の意思に基づいて使用する権限を有し、これを運行の用に供していた保有者であつたことは明らかである。
さらにこのことは成立につき争いのない乙第一号証(原告らが代理人を介して昭和四九年一一月二一日に自動車賠償責任保険調査事務所に提出した同乗理由書)に、被告車は亡小林治の負担において購入したもので、同人において通勤、レジャーにこれを利用し、ガソリン代等を負担していた旨の記載があることからも裏づけられる。
四 よつて本件事故は、被告車の保有者たる亡小林治が被告車によつて被害を受けたものであるが、それも同人が事故現場付近に同乗させて来た訴外蓮見が被告車を運転して本件事故に至つたことは前認定のとおりである。
さらに前認定のとおり亡小林治は木村匡男と話をするために本件事故現場付近に被告車を停車させて訴外蓮見らをそこへ待たせておいたのであり、この間の同人と被告車との距離、同人がエンジンキーを放置しておいたことからすると、本件事故当時も小林治は被告車の運行供用者の地位にあつたと認められる。
そうだとすると当該車両の運行供用者が自賠法三条にいう「他人」に含まれないことは規定上明らかであるから亡小林治が同条の「他人」に該当することを前提とする原告らの自賠法一六条に基づく被告に対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないことになる。
五 なお原告らは訴外蓮見がこれまでに被告車を運転したことがあることをもつて同女が被告車の運行供用者たる地位を取得したとか、同女が自分でエンジンをかけて被告車を発進させたことをもつてこれが運行支配は同女に移つた旨主張する。
しかし前認定のとおり訴外蓮見は自動車の運転方法を教えて貰うために小林治同乗のもとに車を一、二度運転しただけなのであるから、かかる事実をもつて同女が被告車の運行供用者の地位を取得したとは認め難いところであり、また本件事故時も同女は前方約一五〇メートルの地点に居る小林治らの所まで被告車を運転してみようとしてこれを発進させたものであるから、同女は運転者であつて被告車につき運行支配を有する者とは認められないところである。
また原告らは、自動車事故の被害者の救済を図るという自賠責保険の意義に照らし、本件のごとき場合は「他人性」概念の拡張をはかるべきだと主張する。
しかし自賠責保険はあくまで責任保険であつて、被保険者たる運行供用者、運転者において第三者に対して負担する損害賠償債務を填補するものであるから、本件のごとく亡小林治が運行供用者の地位を喪う余地のない場合にはこれを「他人」とみることはできないところである。
六 よつて原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 岡部崇明)
原告の主張
「亡小林治の地位について」
その一
一 訴外蓮見の「運行供用者」
1 本件車両の所有権は既に訴外蓮見に移転しているのであり、本件事故当時の運行供用者は、実質的に見て、訴外蓮見であり、これに対し訴外小林治は名義残りにすぎず、運行供用者にあたらぬ「他人」というべきである。
2 仮に訴外小林治にまた抽象的観念的には所有権が残存しているとしても蓮見自身も本件加害車両の運行を支配し運行の利益をうけていたのであるから「運行供用者」性は否定されない。
二 訴外小林治の「他人性」
1 訴外小林治が当時、記名被保険者であり、当日も本件加害車両を運転していることから、抽象的、観念的には訴外小林治にも運行供用者性が肯定される余地がないわけではない。しかし「運行供用者」という概念は自賠法三条の責任を誰に負わしめたらよいかという加害者の責任からみたものであるに対し、「他人」というのは、自賠法上の救済をどの範囲の者に認められたらよいかという被害者保護の視点からみたものであるから、抽象的観念的な運行供用者性の肯定の判断が、直ちに他人性の否定につながるものではない。抽象的には車両の保有者と考えられるものが、歩行中あるいは他車搭乗中にその者名義の被保険車両により損害を加えられた場合をめぐる諸々の見解は結論においてその「他人性」を肯定し自賠責法上の救済が与えらるべきだとする点で一致している。すなわち加藤教授、宮原守男弁護士は「対人賠償研究会・自動車対人賠償に関する諸問題の研究」において「被害者とみなされるか否かの実質論で考えてゆくべき、X(抽象的には運行供用者と考えられる余地のある者をさす。)を「他人」として保護してやつてよいのではないか」という趣旨の発言をしているし、野村好弘氏(ジユリスト三八四号一二六頁)、倉田判事もかかるXが「他人」として保護さるべきことを認める。又、いわゆる共同運行供用者概念を用い、かかる被害者の対外的責任を肯定しつつも対内的保護を考慮して内部的移転あるいは相対理論という構成により、かかる被害者の保護をはかる見解も多い。(原田和徳判事補、判例タイムズ二三七号四一頁以下、原島克己判事現代損害賠償法講座3巻一二一頁以下)。しかし、いずれにしろ「他人性」の判断は右見解の結論を認容した名古屋地裁昭和四三年八月九日判決のいうように「具体的事故の発生した時の諸般の状況を斟酌して定められるべきものである。」(判例時報五二九号三三頁)最高裁は運行供用者、運転手は他人にふくまれないという抽象的な言い方をしてはいるが、(最判昭和三七・一二・一四民集一六巻二四〇八頁)、「他人性」は具体的な事故の発生した時の諸般の状況により定めらるべきことを最高裁もみとめるであろうことは、いわゆる「妻は他人」判決(最判昭和四七・五・三〇判例時報六六七・三頁)の判示の態度にもみられる。又、その判決の被害者の保護をあつくしようとしている方向性も原告の掲げた前記各見解に一致するところである。
2 以上のべたところを本件具体的事案にあてはめると、訴外小林治は車外にいるとき、本件被保険の加害車両の衝突により死亡した。かかるケースにつき宮原守男氏は前掲の同氏の意見を前提に、端的に「自賠責保険では、保有者(記名被保険者)が歩行中または他車に搭乗中に、自己の被保険者自動車によつて被害をうけた場合には、自賠法三条の「他人」に該当するものとして救済されるべきである。右のような被害態様の場合には保有者は運行供用者性を一〇〇%喪失しているものと考えられる。」(現代賠償法講座・第八巻・一九七頁)とされるのである。又共同運行供用者概念を認める考え方によつても、訴外小林治が車外に出た後に訴外蓮見が本件加害車両を運転した行為は全く訴外蓮見個人のための運行であり訴外小林治は他人として保護される。(前掲原島参照)
以上のべたごとく本件事故は「運行供用者」訴外蓮見により「他人」である訴外小林治が死亡した事故であり自賠責保険による給付が被害者訴外小林治の相続人に対しすみやかになされねばならない。
その二
被告が原告らに対して自賠責保険金支払の義務ありとするのは、小林治という被保険名義が単なる名義残りであるか否か、蓮見貞子に実質的所有権あるか否かに関わらない。即ち、
一 訴外小林治が保有者であるとしても「車外にいて、被保険自動車にたまたまはねられたり」した場合、「対外的には車外の保有者と車内の保有者がともに運行供用者として責任を負う」、つまり、本件における訴外小林治が単なる名義残りでなく実質的所有者であるとしても、「車外の保有者が第三者的立場で負傷した場合は、対内的には被害者である車外の保有者は運行供用者性が阻却され、自賠法上の他人として保護されるべき」であること(金沢理他編、新種自動車保険講座Ⅱ、自動車保険、二一〇頁)は、前回準備書面で述べた通りである。(他に同旨として龍前三郎「他人性(2)」判タ二六八号九一頁)
二 次に蓮見貞子が自賠法三条の運行供用者にあたることに疑問の余地はない。又、自賠責保険の被保険者の範囲は、ある特定の自動車について責任保険があれば、泥棒運転などの不正使用でない限り、当該車両の保有者及び運転者のすべてをカバーするのであつて、それらの者が当該車両の所有権を有せぬことを以つて除外されるものではない。
蓮見貞子は当該自動車の盗取者に該らぬこと当然であり、そうである以上訴外小林治が当該車両の所有権者であるとしても蓮見貞子が被保険者であることに変わりはない。
その三
第一 訴外小林治の他人性
一 先ず強調されねばならぬのは本件は被害者小林治は車外にあつて歩行中、本件事故にあつたということであつて、これはそういう特殊な類型の事故なのであり、右小林治運行供用者性はこの類型に該当するとの一事を以つて阻却さるべきである。即ちかかる被害の場合その運行の態様においては、当該被害者は全く運行支配、運行利益を失なつているのである。
被告は一般的にはこの理を認めながらもそれは「加害車両の運行と無関係にたまたま歩行中であつたという全く第三者的立場で生命身体を害した場合に限られる」、なぜなら「運行に関与していたときは」「運行供用者側の人になる」からであると主張する。しかしまさにその「関与」は当該車両の運転者との関係でとらえられねばならず、なにをもつて「関与」ありとするのかその具体的基準が問われねばならぬのであつて、もはや今日共同運行供用者間での他人性の成否が具体的に論じられている段階において「関与」すなわち「運行供用者側」とのシユーマを以つて問題の解決をはかることは到底不可能である。
二 そこでまず本件蓮見貞子の運転行為に対する訴外小林治の「関与」ないしは「不関与」の内容を運行支配、運行利益を念頭におきながら具体的事実に即して整理してみる。
1 本件の蓮見貞子の運行(以下本件運行という)は全く蓮見貞子のためのものであり、小林治は何らの運行利益を享受していない。蓮見が本件車両を発進させたのは車の運転を練習してみようとした動機からであつてそれは全く蓮見個人の利益のための運行に他ならない。従つて本件運行は客観的に車外小林治を死亡させたということだけではなく、当該運行の遂行者である蓮見の主観の点から考えても小林治は本件運行の利益を全く失つているのである。
2 運行支配という観点からいえば先ず小林が本件車両を路上に放置してから被害に遇うまでの時間、距離が問題となる。本件において小林が本件車両を放置した位置から自分がひき殺される地点までは一五〇mあまりにもはなれており放置してから被害にあうまでの時間は三〇分かそれ以上の時間が経過しているのであつて、小林治の被害にあつた時間場所においては当該車両に対する運行支配は及ばないものといわねばならない。又、本件運行は蓮見が自分でエンジンをかけ発進させたことからも当該車両の運行支配はすでに蓮見の手中にあるものといわねばならない。
3 結局のこされるのは小林がエンジンキーをさしこんだまま車外に出たとの点をどうみるかにかかる。たしかにこの点を「関与」といえばいえよう。しかしそういう意味ではそもそも共同運行供用者間の事故で被害者が全く「関与」していないなどおよそ考えられない。しかも本件のように具体的なその場限りでの当該運行に限つてみれば被害者に運行支配も運行利益もなくその点から他人性が肯認できる場合があり、「関与」という観点とずれることは例えば、路上駐車でエンジンキーを差し込んだまま買物にいつているすきに盗まれた場合の事故については民法七〇九条は別として保有者責任はないとするのが判例であるが、しかし保険上はこの関与をとらえて保険事故扱いにしていることを考えても了解されるであろう(交通事故民事裁判例集、第八巻索引解説号、二八五~二八六頁。なおこのことはまた保険が社会的に被害者救済という重要な役割りを任つていることも示している。)。
結局「関与」という言い方は何ら基準とはならず、又、運行支配、運行利益の有無という概念もいわば運行供用者のためのメルクマールにすぎないのであつて被害者のみのそれを把えても不充分で共同運行供用者間の事故における他人性の決定においては近時の判例が提唱しているどちらの運行支配がより「直接的顕在的具体的」であるかにより他人性の阻却の成否を求めるという考え方に拠らねばならない。
三 近時の判例は運行供用者と対外的には考えられる者が被害者となつた事故について、少なくとも一般論としてはその他人性を否定しない。そして「被害をうけた運行供用者の運行支配が賠償義務者とされた他の運行供用者のそれに比し間接的潜在的抽象的であるときには」「直接的な運行供用者に対する関係では他人性を阻却されることなく、同条にいう『他人』として同条による損害賠償請求を、なしうると解するのが、自賠法の精神に合致する所以である。」とするのである。(東京高判昭五一・一一・二五判例時報八四四、三六頁以下)これは最三判昭五〇・一一・四(民集二九・一〇・一五〇一)にいう事故当時の具体的運行支配の程度態様についてより共同運行供用者の他人性について詳細・明確な基準を明らかにしている。
右判例においてはABが共同運行供用者でありAが運転しBが同乗中の事故でBが死亡した事例であるが、「Aは事故当時の運転者であつて亡Bは同乗者であつたという点においてAの方がより直接的顕在的具体的であつた」「そうすると亡BはAに対しては自賠法三条の『他人』であるとして同条による損害賠償責任を追及する余地があるように思われる。」(判例時報八四四、三八頁)とするのである。
そして本件においては被害者小林治は車外にありその意味で運行支配の蓮見との直接性、顕在性、具体性の比較は火を見るより明らかである。前述した被害者が車外にいた「類型」という一事をもつて、という趣旨は当該運転者と比較すれば車外にいた者は同乗者との比較の場合より一層明確により間接的潜在的抽象的であることが断言できるのであつて本件運転者蓮見に対して小林治が「他人」であることは否定できない。さらに、又、小林治のエンジンキーをさしたまま車外に出たとの点は運行支配との関連はゼロとはいえぬとしても蓮見の運供支配の程度に比べれば無視してもよい程の小さな割合であつて、決してそれは被告の賠償責任の否定につながるものではなくせいぜい損失分担割合の決定に影響するにすぎないことは過失相殺の場合の考え方と同一である。このことは野村好弘氏が「運行供用者の地位にあるものが被害者になつた場合には、他人として保護されないとしてその損害賠償を否定する考え方は、妥当でない」として公平の見地から責任主体間の損失の分担の問題として他人性の割合と把握するよう提唱されていること(交通法研究、創刊号、八三頁以下)も参考となろう。そして右により小林の他人性が減殺されるとしてもその割合いは著るしく低いと言わねばならない。
第二 蓮見の運行供用者性
次に被告は蓮見が保有者にあたらず従つて保険保護はないと主張するが以下の事実よりすれば蓮見が保有者であることは否定できない。
一 蓮見と小林治はかねてより愛人関係にあり、一時は同棲もしたことがあるなどの密接な関係にあり、蓮見の本件車両の運転が泥棒運転と同視できぬこと明らかであろう。
二 のみならず、蓮見はかねてより本件車両に同乗して小林との運行に供していたのみならず、免許証がないながらも自らハンドルをにぎり本件車両を運転したことがありそれも一回だけというのではないのであつて、常日頃の蓮見の本件車両の運行との関わりよりしても保有者性は否定できない。
三 さらに本件事故現場において蓮見が運転するに至つた経過を考えても、蓮見が勝手にのりこんで運転したのではなく、いわば蓮見らが小林から車両の管理を任された格好で蓮見が車内に残されており、それにひきつづき前述のごとく蓮見が練習のため動かしたものでたしかにこの点は小林の支配を脱し、又、小林の利益にも添わぬものではあつても蓮見の本件車両の占有を何ら民事的に違法視することはできぬのであつて、以上よりすれば蓮見が保有者であることは明らかであろう。
第三 自賠責保険の意義と判例の向かうべき方向、
一 自賠法は自動車事故の犠牲者の救済を責任保険を用いながら被害者の救済という緊急な社会的要請に応えるべく一方において賠償責任を保有者に集中し、条件付無過失責任主義をとるとともに他方において免責について多くの制限を付すなどの措置を講じている。又、被害者の直接請求の規定を設けたのも被害者救済のため責任保険というワクに修正を加えたものである。
二 しかしながら被害者救済のための実質的な配慮は裁判例の具体的なケースについて一歩一歩なされざるを得ずその中で多くの規範概念が考えられその成果をふまえて統一的な処理をふみながら更に又新たに工夫がこらされて行つた。そうした中で従来力がいれられていたのが運行供用者概念の拡張であり、そして今日特に問題とされているのが他人性の拡張である。
三 運行供用者概念を拡張していくための概念装置は一つのフイクシヨンでありそれ自体をとらえれば必ずしも完全に合理的でなくても多くの論者の支持をえられたのはその背後に保険による救済という目的が肯定されたからに他ならない。
今日、他人性概念が問題とされているのは右のようなフイクシヨンにつみかさねられた運行供用者概念が他人性は非・運行供用者と規定されることによりここでは逆に被害者救済に反する結果をもたらしてしまつていることに対する実務家の間で反省があるからである。最判の「妻は他人」判決をはじめ、前出の判例や、やはり共同運行供用者に関する東高判昭五一・九・三〇判時八三五も他人性の拡張の方向がうかがえるし、又、運転者が被害者となつた事案についてその他人性を肯定した松江地判昭五〇・七・二一もやはり他人性について実務の向かうべき方向を示唆している。
四 たしかに「相対的に他人」という言い方にしても、あるいは「他人性の割合」という言い方にしてもそれ自体をとらえればフイクシヨンにすぎなかろう。しかし、これら概念装置は保険に媒介され今日被害者救済に重大な役割りをはたしもはや社会保険化した自賠責保険の現状から考えれば、「他人性」についてその拡張をはかるため何らかの概念装置を定立する方向は判例実務のどうしても目を向けねばならぬことであり、まさに本件をはじめとする続発するこの種の被害における被害者救済のため、つまり救うべき者を救うため、今日緊急に必要とされていることなのである。
「抗弁に対する答弁」
一 原告らが昭和五〇年六月一〇日付で訴外蓮見貞子との間で示談書をとりかわしたのは事実であるが、それをもつて被告に対する本訴請求を失当とすることはできない。
即ち、右示談書にあるのは被告主張のような「残差額を放棄する旨」の記載ではなく、右第五条によれば、「残損害金を乙に対して請求しないことを約束する。」ということであつて、これは蓮見に対し事実上請求しないとする趣旨でかえつてこのことは右示談書は保険会社、即ち被告に対する請求については別段であることを示しているのであつて、右第五条の趣旨は、「乙に対して」の場合以外については損害賠償債権につき右蓮見から給付うけた部分を上回る損害金の残額部分について保険金の給付を請求することを妨げるものではないことを明らかにしている記載ということができる。
二 被害者が加害者と保険会社の双方に請求することは二重払にならない限り不当とされるいわれはない。原告らの訴外蓮見貞子に対する損害賠償債権金額は合計は二千万円を超えるものであつて、原告らが右蓮見から給付された不動産(尚、これは訴外小林治が訴外蓮見のために金を出しており、原告らはその分を返還してもらつたにすぎぬという面もある。)をもつて右損害金の弁済に充当するとしても損害賠償債権残額は一千万円を下らない。従つて右蓮見が自ら原告らに給付した分につき被告会社に対し加害者請求をしていない現在、原告らの被告会社に対する被害者請求が排斥されねばならない理由は何らないものと言わねばならない。
被告の主張
「亡小林治の地位について」
一 加害車両の保有者が被害者として当該車の自賠責保険の保護を受けられる場合があるが、それは例えば加害車両の所有者(保有者)が友人に加害車両を貸与中、たまたま保有者が歩行中に右友人の運転する加害車両にはねられた場合の如く、具体的事故発生時の加害車両の運行供用者が保有者から加害車両の貸与を受けたという保有者の地位にあり、且つ所有者は加害車両の運行と無関係にたまたま歩行中であつたという全く第三者的立場で生命身体を害した場合に限られるのである。
何となれば自賠責保険の被保険者は運行供用者一般ではなく保有者即ち所有者その他自動車を使用する権利を有する者に限られるのであつて、具体的事故発生時の加害車両の運行供用者が保有者の地位を有しない場合にはその運行供用者は被保険者の資格なく、したがつて保有者の資格なき運行供用者が自賠法第三条の損害賠償責任を負担したとしても保険保護はないのである。この理は自賠法第一六条第一項のいわゆる被害者請求においても同様である。また被害者たる保有者が単に保有者という地位にあるだけでなく当該事故発生時の加害車両の運行に関与していたときは、自賠法第三条の運行供用者側の人になり同条の他人に該当せず、自損事故・自招行為として賠償責任保険の保護範囲を脱するからである。
二 これを本件事故についてみるに、本件事故は加害車両の所有者(保有者)亡小林治は訴外蓮見貞子(無免許)を同乗させ加害車両を運転して本件事故現場近くに至り、加害車両を停車(但しエンジンをきつたかどうか不明であるがエンジンキイを差込んだままであつたことは明らか)させて車外に出て友人と立話中、車内に残つた訴外蓮見が加害車両をいたずらして発進させブレーキとアクセルを踏み違えて暴走させて亡小林に衝突したものであるが、訴外蓮見が停車中の加害車両を右の如くいたずら運転(?)したことをもつて仮りに訴外蓮見が加害車両の運行供用者なりとするも到底同人が保有者の地位にあつた者とは云い難く、また停車中とは云え加害車両は車外に出て友人と立話中の亡小林の運行支配下にあつたことは明らかであり、亡小林は前記の如き第三者的立場で受傷した者に該当しない。
三 右の次第であるから、訴外蓮見を被保険者とし、保有者亡小林を被害者とする原告の自賠責保険金の請求は失当である。
「抗弁」
原告らは本訴において訴外蓮見貞子に対する損害賠償請求権の存在を前提として被告に対し自賠法第一六条に基く損害賠償額の支払を求めて居るが、原告らは昭和五〇年六月一〇日訴外蓮見貞子との間に、損害賠償債務の履行に代え同訴外人所有の左記不動産の所有権を代物弁済として取得し、同不動産の売却代金額が損害賠償請求額に充たなくともその残差額を放棄する旨の和解契約を締結して居る(乙第一六号証)のであるから、原告らは訴外蓮見貞子に対する損害賠償請求権を現有せず、したがつて原告らの被告に対する本訴請求は、この理によつても失当である。
記
(一) 北相馬郡藤代町新川字御立野一、三四五番六五三
宅地 二〇・〇〇m2
(二) 同所一、三四五番六五四
宅地 六〇・三〇m2
(三) 同所一、三四五番六五四
家屋番号 一、三四五番六五四
木造瓦葺平家建居宅 三三・一二m2